古武道柳生新影流兵法
古儀慶事作法「四方祓の儀」
 四方祓は古来鎌倉時代より武門の慶事のならわしとして連綿として継承されて参りました口伝奥業です。

 特に婚礼の儀に際しましては、四方の邪悪を仮借なく戴ち四方八方よりの紹福の為の演武でございます。
 
柳生新影流兵法
由来と沿革
 
 柳生新影流兵法は通称西国柳生とも称し、その道統は武道界で「最後の侍」ともいわれました。

 第十三代宗家「蒲池鎮浪公」によりいっそうの命脈を保っておりますが、そもそも新影流は剣聖上泉伊勢守秀綱(後に武蔵守信綱を襲名)の創始による兵法です。

 天文年門(西暦一五三二年)武神の地鹿島にて松本備前守政元に鹿島神流を学び並びに愛洲移香斎影の流を学んで修得した剣理,剣法に創意工夫を重ね遂に大成、人間の煩悩を断ち切る「摩利支尊天」の振るう仏刀を奥源と為し不殺修身の活人剣を持って奥義と致しました。

 永禄十年(西暦一五五八年)上武蔵守信綱は一国唯一人の印可を与える為大和柳生の圧をおとずれ、柳生石舟斎宗厳に新影流兵法のすべてを伝授し、不双の印可状を授け正統二世を許しました。

 柳生石舟斎宗厳は師の兵法に新意を加え、柳生新影流と称しました。その高弟柳生松右衛門宗信と同門の俊英有地内蔵尢元勝を帯同し西下し、兵法指南役として長州萩藩、薩摩島津藩に赴き、西国柳生新影流の道を拓きました。その道統を継承しました三宅源八郎重栄が筑前黒田藩に薩摩島津公息子養子入りの際、入部し武術指南役として居住、現在に致しております。

 当流も筑前黒田藩でも古くから代々黒田武士の道統剣術として盛んに行われ、時代の大きな変革にも絶えることなく県外にもまで同好の士を集めております。

 また、この武術は徳川将軍家の兵法指南役としても継承されておりますが、黒田藩始祖孝高(如水公)が時の将軍家康公に第二代石舟斎宗矩父子を推挙し、長政公が父如水公の命を受け、柳生家に使者を馳せたのに始まるといわれます。

 また、この剣法の極意の上意は抜かざること、中位は抜かしめざること、下意は戦わずして勝を得ることであります。

 これは、平和志向の精神であると存じます。また、多々良町民が「たたら祭り」を通じて明るく健康な生活が営むことができますよう、また、この日を契機に智、徳、体の三技を確認し、健全なる精神を養い、真の意義に徹していく所存です。

 そして、多々良町民の前途を祝し、祈念をこめまして、清興として古武道柳生新影流兵法の型を哀心より演武させていただきます。
 
柳生新影流第十三代宗家蒲池鎮浪公 門下生
柴田佐久美
福岡市東区名子2丁目5番